仕事のやらかし

10代のころは無気力だったという芳沢社長が「社長」になったワケ

2021/08/23 仕事のやらかし起業失敗談

芳沢社長

アンリミ株式会社 芳沢 良 社長の失敗談

【設立】 平成17年12月

【事業内容】 情報通信業・情報サービス(SES)と受託開発(業務系システム開発・業務系サーバ・ネットワーク構築・ゲーム開発・WEBアプリ・WEB制作)

 

失敗① 10代無気力

──経営者の方って失敗していないイメージがあります。順風満帆って感じで。

いやいやいや、失敗たくさんありますよ(笑)私は10代のころから挫折が多かったですね。

中学生・高校生がまあ、無気力でしたね。努力を放棄していました。

──え、努力放棄してたんですか。めっちゃ意外です。

勉強する目的だったり、スポーツをする目的がわからなかったんですよ。正直、やっても無駄だと思っちゃってたんで何もやらなかったです。当時は、勉強=いい大学に行くもんだというイメージだったんですよ。でも僕の家はあまり裕福ではなかったので、中学生くらいで「あ、これは大学には行けないな」と。じゃあ勉強しても意味ないなってなっちゃったんですよね。今なら戻って「お前何やってるんだ」って説教したいですけど(笑)スポーツも同じように、スポーツもお金にならないのになんでやんの?って思ってました。10代は「いかに楽するか」しか考えてなかったです。

バイトもしてましたけど、いかに楽してバイトするかしか考えてなかったので。10代のテーマは「いかに楽するか」しかなかったですよ。

ただ必要最小限やるみたいな感じでしたね。

──高校卒業してからは何されてたんですか?

高校卒業後1年間ニートしてたんですよね。この間はゲームしたりただ友達と遊んでましたね。

それから食品加工の会社に勤めてたんですけどこれが結構大変で。今も仕事で大変なことはいっぱいありますけど、食品加工の仕事にだけは戻りたくないですね。ベルトコンベアーで梅干し8時間入れ続けるみたいな。そこで2年働いてました。

──大変ですよね!私もそのバイトやったことあります。3日で辞めましたけど(笑)

あまりにも単純作業なので自問自答が始まるんですよね。心を無にするか、「人はどこからきてどこへ行くのか」みたいな哲学を考えながらやってました。

芳沢社長

失敗② 20歳で700万円の借金を背負う「たとえ親族であっても連帯保証人にはなるな」

20歳になったぞって時に母親が目をキラキラ輝かせて、行くとこあるからって消費者金融に連れてかれて、ここにサインするんだよって母親に言われるがまま、サインしました。まあ、連帯保証人だから関係ないでしょって高をくくっていたんだけど……

その借金700万が降りて1,2年するくらいで母親が破産宣告で借金をチャラにしたんだけど、連帯保証人はそのままなので私が払う羽目になりました……(笑)

ここで得た教訓は「たとえ親族であっても連帯保証人にはなるな」ですね。

──20歳で700万、しかも母親のですか!人間不信にならなかったんですか?

なるよ!でも、自分はめちゃくちゃ「ツイてる理論」で乗り越えてきましたね。

母親からの借金とかあっても自分はツイてるって思ってポジティブシンキングを維持してましたね。

──「ツイてる理論」とは?

1.人間に生まれてラッキー

2.五体満足に生まれてラッキー

3.この時代に生まれてラッキー

4.日本に生まれてラッキー

この4つのラッキーをを潜り抜けてきたんだから!と思ったらすべて乗り越えられるんですよ。嫌なことがあっても「人間という良いガチャを引いちゃったんだから、多少嫌なことはあるでしょうよ」ってね。

──なるほど!いつ悟りを開いたんですか?

製造業のベルトコンベアーで流れ作業をしてるときですかね(笑)

失敗③ 就職に失敗

──20代はどんな感じだったんですか?

10代は無気力、20代も最初のうちは主体性や責任感もなく受け身型でしたね。それで就活がまあうまくいかなかったですね。IT系やゲーム業界に行きたいという想いのはあったけど、そのために努力してるかといわれたらそうじゃなかったので、受かるわけないよね。端的に言えば、コミュ障でしたね。中高ではそこそこ社交的だったけど、高校卒業後にニート生活したことで一気に人と話す機会が減っちゃってコミュ力が絶望的に落ちたよね。

──え、そうなんですか!?想像つかないです。

就活に失敗しまくって50社くらい落ちたんですかね。書類選考でお断りももちろん多かったけど、面接に行っても全然受からなかったですね。未経験okという会社でも。今思えば、第三者目線がなかったですね。みだしなみや礼儀とかそういう客観性が全くなかったので、そりゃ落ちるわなという感じですよね。

そこから就活諦めて、データ入力のバイトしようと思ってエントリーにいったところ、派遣のアルバイトリーダーをやっていた経験を買われて社員にならないかとスカウトされてそこでエンジニアデビューを一発逆転で果たしましたね。

そこの上司に恵まれてプロジェクトマネージャー補佐(PMO)として約2年働きました。

芳沢社長

失敗④ 「自分は大企業の人間だった」とキャリアを勘違いしていた

エンジニアとして働いていた会社の転勤を断って退社してしまったんですよね。

青森か四国に2年くらい行ってくれと言われて。今思えば、その時に「よく考えろ」って言いたいですね(笑)

──え、なんで転勤断っちゃったんですか。

当時21、2歳で彼女がいたんだけど彼女も大学生だったからね。一緒に来いなんて言えるはずもなく。今思えば、その退社という決断は一体何だったのか、と。

プロジェクトマネージャーとして大手ITグループの中小企業で働いてたんですけど、だんだんその「大手」で働いている感覚になって。大企業の看板を背負って働いていたから転職なんて簡単でしょうと。でも実際は無名の中小企業だから、転職活動に失敗するわけですよ。SE経験があるから書類選考は通るんだけど面接では「なんか、思ってたのとちがうね」という回答で……この時も30社くらい面接落ちましたね。

その中である企業に「エンジニアじゃなくて営業職だったらいいですよ」という悪魔の誘いがくるわけですよ(笑)そこでよせばいいのに「営業でもいいから雇ってください」という回答をしてしまうんですね。そこでエンジニアを引退して、営業職の芳沢として爆誕するわけです。

──なんでエンジニアから営業職に?

当時の彼女に、就職しないと別れると言われたんですよ。それで、なんでもいいから就職しなきゃ!と。

結局、営業職として就職して2週間くらいでその彼女に振られちゃったんですけど。他でもう男をつくってたんですよね。

そうすると営業職なんてやる意味ないし、やめようと思ったんですよ。もともとエンジニアをやりたかったわけだし、営業職なんかやる必要ないなと。でも、当時の社長がめちゃくちゃ怖くて辞めると言い出しずらくて(笑)まあ、その社長はおっかないし人間的にはひどい人なんだけど、仕事はめちゃくちゃできる方なんですよ。今でも敵わないなって思ってるくらいですね。当時の私よりも5、6つ上だったので社長も20代だったんですけど。こんなにできる大人がいるんだって衝撃を受けましたね。

振られた彼女も、お金持ってそうな大学生にとられたってこともあって、ここで変わらないと思ったんですよ。当時は借金の返済もあってお金が絶望的になかったんですよ。だから彼女にご飯を奢るなんて、できなかったし、遊びにいくとか旅行に行くとかもできなかったし。今考えたら、そりゃ振られるわなと。そこでやっぱり「男たるもの甲斐性がないとだめだ」と思いましたね。当時22歳だったので、これから大卒の方たちと肩を並べるってことを考えても、まずいよねと。社長が怖くて辞めると言いずらかったのもだし、小金持ちのボンボンに彼女をとられたこともしかり、危機感から「俺は変わらなくてはいけない」と決意しましたね。

変わらないと!と思った時に優秀な方が目の前にいるから、俺はこの人をコピーしようと。

社長をコピーできるまではやめないと固く決心しましたね。ノウハウだったりマインドを吸収するために2年は辞めないぞと決めて働き始めたのが22歳の時でしたね。その時は社長に対して完全に狂信者でしたね(笑)

入社して3か月後に名古屋に転勤しないかという話が合って。いつからですか?って聞いたら3日後って(笑)3日後には名古屋に転勤してました。

──あれ、さっき転勤を断って辞めたのに、こっちの転勤はOKだったんですか(笑)

その時は彼女と別れて独り身だったからね(笑)

この時が一番ヘビーできつい時期でしたね。

当時は借金の返済もあったけど、別れた彼女には借金があるって言えなかったんですよ。彼女から「なんでそんなにお金ないの」って目で見られてたけど、言いたくなかったんだよね。

親からも「お前も破産宣告しろ」と言われてたんだけど、当時の僕は破産宣告はなんか嫌だったんだよね。もし破産宣告していたら今頃社長はやれてなかっただろうしね。今思えば借金を返済するっていう道を選んだのは正解だったかなと。

でも、月8万の返済はきつかった…。

社長をコピーするぞってなったときから昔の自分は砕かれてて、そこから新たな私が誕生しましたね。New芳沢が誕生しました。

ここを境に昔の印象とはだいぶ変わったでしょうね。昔の私を知る人からすれば「え、芳沢が社長!?なんで」ってなると思います(笑)そのくらい当時はがむしゃらに働いたし、仕事が出来なければ男としてダメっていう価値観で20代は突っ走ってたんで、スキルやなんだとか磨くのにもかなり貪欲でしたね。

20代はがむしゃら期でしたね。

そのころは1人で60人をマネジメントするくらいで、売り上げも個人で年間2億の結果を出したんで、ある程度自信もついたしもういいでしょと。

──たった2年働いてそこまでなれるんですか!

寝る以外は全部仕事みたいな生活をしてましたね。社長に「お金ないからオフィスに泊まっていいですか」って言ってオフィスで寝泊まりしてましたね。家賃・光熱費を浮かせてその分を借金返済にまわしてました。それでもカツカツで飯食えなかったんで、でも営業で自転車を漕いでっていう生活をしてたらみるみる体重は落ちていって当時は体重38㎏まで落ちましたね。

失敗⑤ 転職に失敗した!ちゃんと入社する会社は見ておいた方が良い!

まず、転職するときはその会社をちゃんと見ろって言いたいですね(笑)

──でも求人なんていいことしか書いてないからわかんないじゃないですか?

名古屋から帰ってきて8社くらいからうちで働かないかとスカウトもらって、そのなかの1社に入社しました。決め手としては「社宅を用意してもらえること」ですね。当時オフィスに住んでて、住所不定有職だったので(笑)

──それはめずらしい(笑)

退社したら家なき子になっちゃったんですよね。オフィスに住んでたから。友達の家に転がり込んでて、早く家決めなきゃなと思ってた時にちょうどそういうお話があったので。その会社の社長が上場するっていう話をしてて、おもしろそうと思って選んだんだけど、結果失敗でしたね。

──え、なにが失敗だったんですか?

当時24歳くらいで、ゴリゴリ働きたかったんですよ。でも社内が「頑張るのやめようぜ」っていう空気なんですよ(笑)定年をただ待ってるだけみたいな。社長だけイケイケで「よし、がんばるぞ」っていう感じなんだけどそれ以外全員が「社長はそう言ってるけど、やめようぜ」みたいな。「芳沢君もほどほどに仕事して、ほどほどの稼ぎで甘い汁吸おうぜ」みたいな。

まあ、定年間近の人はそれでいいかもしれないけど、エネルギーを持て余してる側からすると、その環境はめちゃくちゃ苦痛なわけですよ。営業成績をほどほど落とさないようにして頑張りもせず。営業成績を上げちゃうとそれが基準になって、がんばらないといけなくなっちゃうからっていう理由で、「芳沢君、がんばるな」という政治的圧力が(笑)でも、当時の僕はうぶだったので仕事頑張っちゃうわけですよ。そうすると成績出すわけですよ、そしたら異動事例があって異動してしてくれと言われて。そうするとまた成績リセットされるんだけど。また成績だすと異動してっていうのをずっと繰り返す感じ。1年9か月くらい働いて6回も異動がありましたね。

──え、異動6回!?

それが政治的なものだとわからず「あ、この会社は異動が多いんだな」って思ってました(笑)

仕事頑張るな!っていう同調圧力も僕を心配していってくれてるんだと思って「あ、いえ!僕は大丈夫ですよ」って勘違いしてました(笑)今思えば、あれは社内政治に翻弄されてたんだなってわかるんですけど。さすがに、「社長にクーデター企ててる」とか思ってもないあらぬうわさを社内で流されたりとか、6回も異動あって営業成績リセットされたりでさすがに私も後半は気持ちが萎えていたんですよね。このままでいいのか、つまんねえって思ってた時に昔の同僚と飲む機会があって、「目が死んでる。あの時のギラギラした芳沢さんはどこに行ったんだ、芳沢さんなら会社をやると思ってた」と言われたときに、「会社を立ち上げるという手があるのか」と天啓に打たれたんですよね。

当時は会社の立ち上げに1000万円の貯金がないとダメっていう縛りがあったんですけど、私が会社を立ち上げる1年前に資本金1円で良いよって法改正されたんですよ。そこで1円で立ち上げればいいんだって。半年くらい準備してから退職して、アンリミ株式会社を立ち上げました。

ちゃんと会社は選ばないとだめっていうのと、社内政治にはうまく立ち回るべきっていうことを学びましたね。

日本社会は仕事が「出来る、出来ない」ではなくて、「好き嫌い」で出来上がってるんだなと実感しました。

当時の私は仕事さえできればすべての価値観をねじ伏せられると思ってたんだけど、そこでやっぱり仕事ができるだけじゃ、結果を出すだけじゃダメなんだと思い知らされましたね。社内政治には抗えないという。故に僕は、アンリミでも社内政治が起きないように目を光らしてますけどね。

芳沢社長

失敗⑥ 会社を立ち上げる前にちゃんと準備はしとけ!

26歳でいまのアンリミ株式会社を立ち上げました。市町村のやってる「会社の立ち上げ融資」とか「新規創業プロジェクトに融資します」とかあるじゃないですか。あれって会社を立ち上げる前、サラリーマンで働いているときに申請するものなんですよ。申請がおりたら会社を立ち上げるというプロセスなんですけど、僕は会社を立ち上げてから融資してくださいって言っちゃったので融資してくれるはずがないんですよ、後ろ盾がなにもないので(笑)なので、お金がなかったですよね、絶望的に。だから会社の運転資金を消費者金融から借りるしかなかったんで消費者金融から借りてましたね(笑)

え、創業融資してくれるんじゃないのって(笑)お金きつかったのでそのころは100均パスタをソースで味変して朝昼晩と3回に分けて食べてたね。

ちゃんと会社を立ち上げる前にちゃんと融資の準備はしとけと言いたいですね。

資本金は1円でもよかったんだけど、当時は5人役員がいないと会社をつくれなかったので、姉夫婦と友達に名ばかり役員になってもらいましたね。そのとき、役員に名前を貸してくれた人にはとても感謝してますね。両親には断られているんですけど(笑)

──え、両親に!?

だからその友達には心から感謝してますね(笑)両親なら役員になってと言ったら快諾してくれるだろうと思ってたのでそこはちょっと見通しが甘かったですね。お金の見積もりもね(笑)

なんだかんだ2年で社員が20人まで増えたんですよ。

これでちょっと楽になるかなと思ったところにリーマンショックですね。社員が7、8人くらいまで減っちゃったのがかなりきつかったですね。

──そこから再起を図るまでにも失敗があったんですか?

再起を図る中で、営業職を雇うというチャレンジをしたんだけど……そこで声を大にして言いたいことは、友達を会社に入れてはいけないということですね。

まあ、飲み友達を雇ったんですけど、友達だと緩さだとか甘さが出るんでね。プライベートの時の私と、仕事の時の私とのギャップについてこれないんですよ。僕は仕事はしっかりやりましょうというタイプなので、そのギャップについてこれなくて1年くらいで辞めちゃったのかな。

その前にも、会社の役員の名義を貸してくれた友達もITに興味があるとかで来てくれたんですけど、そこもあまりうまくいかなくて……

その友達は幼馴染の親友だったんだけど、この一件で疎遠になっちゃったよね。親友の縁がひとつ消えちゃったんで、そこは「やっちゃったな」と思いましたね。あまり近しすぎる人と「管理する人」と「管理される人」の間柄になってはだめだなと学びましたね。

失敗⑦ 受託での失敗

でかい失敗と言えば受託ですかね。仕事を取ってきて作って納品するという仕事なんですけど、それをやりたいという声も多かったので、ホームページをつくる仕事を取ってきたんですよ。

2人チームでやったんですけど、2人ともとびましたね(笑)

──行方不明ってことですか?

一人はそのあと謝りに来ましたね。その会社さんには平謝りして……そこからその会社さんとも5,6年疎遠になっちゃいましたね。最近は関係性がちょっと戻ってきたんですけど。

そこで学んだのは「やりたい・やりたくない」ではなく「できる・できない」で人を見ないとだめということだね。身の丈を超える仕事を取って、意地でもねじ伏せてやろうというのは100人に一人二人くらいの打率だなと。

でかい仕事を取ったらどんな手を使ってでもやりきらないといけないっていうことを考えるんじゃなくて、逃げる方向を人間って考えちゃうんだなとそこで学びました。君が受託やりたいって言ったじゃん!ていう感じでしたよ当時は(笑)

──やりたいって言葉を安易に信用してはいけないということですね。

受託失敗したのは僕の中でもけっこう重かったですね。

自己肯定感が低すぎたがゆえに他人への期待値が高すぎた。

やっぱり営業職を雇っても長続きしなかったりとか……そこは完全に見る目がなかったですね。こんな私でも出来たんだから、君たちも出来るでしょっていう感じで明らかに適性がなさそうな人でも営業職として雇ってたんですよ。

──先ほど、芳沢社長も営業職を境に変われたとおっしゃてましたもんね。

ちゃんと適性はみないといけないなと。今まで自己評価が低かったんですよ。こんな僕みたいなクズでも仕事できるようになるんだから、他の人もできるでしょという価値観だったんですけど、最近は「僕はめちゃくちゃ優秀なんだ」って思うようになりました。僕についてこれそうな人を雇わないといけないなっていうマインドに切り替えました。最近は自己肯定を高めに設定してますね。

サラリーマン時代の失敗談から起業したての失敗、社長としての失敗までを教えてくれました。20代前半からIT業界で働きはじめ、今は社長として経営をする立場にいらっしゃいますが、今までの失敗を踏まえて今後のアンリミ株式会社の展望を教えてください!

芳沢社長

芳沢社長の考える、アンリミ株式会社の今後の展望

中期的な目標でいえば、社員を120名に増やすことですね。個人が管理できる範囲と言われてるのが120名なんですよ。

120名の組織になったときに、その規模を維持して先鋭化するのか、それとも組織の拡大路線にいくのか。そこは120名になったときに決断しようかなと思ってます。

長期的な目標は、創業当社から変わらないんですけど「自立した社会人を育てる」ことです。結局それが社会貢献、はたまた世界貢献につながると本気で思ってます。当然、アンリミで長く勤めてもらえたらうれしいんですけど、たとえ方向性の違いだったり会社を離れることがあったとしても、アンリミを辞めた瞬間によそでは通用しませんみたいな人にはなってほしくないんですよね。他社に行ってもうまくやっていける人に育ってほしいし、さらには自分で会社をやれるようなスキルを身に着けてほしいなと思ってますね。日本は経済的に危うい国だと思ってますから、サバイバル能力を今の若い子は身につけないと結構やばいと思うんですよね。それもあって「自立する」というワードを結構入れてるんですよね。社員育成をすることで社会貢献にもなるし、会社の利益にもつながる、利益がでればさらに会社を大きくして僕のポリシーも広められるし、新たなプロダクトへの予算も割ける。そういうようなサイクルを目指しています。なんか、あんまりでかい夢をぶち上げるとかは胡散臭くて僕は嫌なんですよ。むしろ人材育成とか目の前のことをやることによって大局が動いていくんじゃないかなと思っています。社員からすれば「上場するぞ」とか「ITをつかって世界に貢献する」みたいなでかいものをぶち上げた方が良いのかもしれないですけどね。

──まあ、それってすごいこと言ってるようでなんも言ってないですからね(笑)

思いや理念に共感してくれ仲間が増えてくれたらうれしいですね。単純に、僕はIT業界を愛してますね。営業職をやる前とやった後では別人だという話にあったように、営業職をやり始めてから自分の人生が良い方向に向き始めていい流れに乗れたんですよ。そうじゃなかったらずっと暗黒をさまよってたと思うんで。そう思うと自分を変えてくれたり、育ててくれたり仲良くしてくれるお客さんがいるIT業界を愛していますね。愛着があるから純粋に仲間を増やしたいですよね。自分が住んでる土地が良いところだからみんなも来たらと思います。一言でいえば「愛」という感情で働いてますね。

―インタビューありがとうございました!

アンリミ株式会社のホームページはこちら

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